一通の手紙

お盆と私の死生観の変化今年もお盆がやってきた。34年前に父を亡くして以来、私は毎年欠かさず、お盆の行事を丁寧に行ってきた。迎え火、送り火、仏壇の飾り付け。あの世とこの世がつながる時期に、父やご先祖を想い、精一杯もてなしてきた。けれども、2〜3年前から、心の中に変化が訪れた。もしかしたら、私が父の亡くなった年齢を越えて生きたからかもしれない。あるいは、長く生と死に向き合う中で、死生観そのものが変わったのかもしれない。今の私は、お盆のために自分を犠牲にしてはいけないと思うようになった。お墓を守ることと、ご先祖を大切にすることは、必ずしも同じではないと思う。私たちは、どこにいても感謝の祈りを送ることができる。場所も形も問わず、心でつながることができる。そう信じている。お盆は、単なる年中行事としての形式ではなく、そこに込めるべきは平和への祈り、ご先祖への感謝、そして「今を生きる人の幸せを第一に考える」ことのためにあると思う。長距離の帰省や渋滞、小さな子どもや高齢者への負担。迎える側も送り出す側も気を遣い、疲れ果てる。果たして、これが本当にご先祖の望むことだろうか。それとも、「この時期に家族が揃う」という形を守ることに、私たちは囚われているのだろうか。何が良くて、何が良くないのか、その答えは一つではないと知っている。ただ、私は今、日々の暮らしの中で感謝を捧げ、平和を祈り、愛する人たちの幸せを願うことこそが、ご先祖への何よりの供養だと思っている。お盆は、命の中の魂を思い出すためにあるのではないかと思っている。私たちは、ご先祖を迎えるために飾りを整えるが、本当に整えるべきは、自分の心だと思う。線香の煙よりも、感謝の思いがより高く届くと思う。墓石の前よりも、日常の一瞬の祈りがより深く届くと思う。ご先祖は、私たちが渋滞に耐え、疲れた顔で集まることを望んではいないと思っている。望んでいるのは、今を生きる私たちが、互いを思いやり、命を大切にすることだと思う。お盆は、過去と未来を結ぶ「今」という橋。その橋の上で、私たちは平和を祈り、感謝を捧げ、命を輝かせるのだと思う。だから、私は、お盆を通して日常の中で命を敬う心を新たにする時とすること遠く離れていても、言葉や思いでつながること生きている人の笑顔と安らぎを最優先にすることで、ご先祖への十分な供養になると思うようになった。命は、形よりも思いでつながっていると信じているからその思いは、平和な豊かな未来への贈り物となると信じている。

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